破壊的民主主義━記憶に残った文化祭━
民主主義。
近代から世界に爆発的に普及した、国家のシステムである。その根幹を成すのが、構成員の主権であり、物事を決定するにあたりその構成員が決定することが、民主主義として不可欠なのである。
もっともこのような考え方の本質は、人の平等である。人間は生まれながらにして差別される?それはおかしいのではないか。そのような疑問が生まれるのは当然のことである。
たしかに経済的にも社会的も差は生まれることは既に肯定されうるが、人としてこの世界に存する限りその人である存在に差別が生ずるのは甚だおかしい。「平等」。この考え方は至極当然のことである。
わけだが、、、
僕は高校生の時、時に暴力的に、その民主主義が暴走し、ルールを破壊し、平等の名の下に個人の意思を蹂躙していく様を見たことがある。今回はその件について、筆を取った。
高校2年生、思春期も終わりが近づき、精神的に多感な部分も安定した部分も持ち合わせる、そんなモラトリアムな時期。
僕の高校では、年に一度の文化祭が、あった。
読者の方ももちろん、普通に学生生活を送っていれば、当然経験があるであろう文化祭。イメージを抱いて欲しい。
配役を決める時、それぞれが己が演じたい役を主張し、周りとの調整を図り決定していた様子を。どうだろう?想像つくだろうか?
では、その中で、複数人が競合しなかった配役があれば、それは『即決』していなかっただろうか?していただろう。していたはずだ。僕も小学校中学校は、競合のないお坊さんや昆布、樹木の役は希望者が希望を出した時点で決定していた。
長々と書いてきたが、未だタイトルに関係のないことばかりで申し訳ないが、ここからが本題である。
文化祭の配役の中に、「勇者」役があったのだが、
その勇者役に、1人の男性が、立候補した。
その男性は、どちらかというと普段は主張の控えめな人で(若者言葉でイメージしやすく言うと、インキャ)およそこのような時に立候補してくることは、誰も想像していなかっただろう。
だから、
教室は、
ざわついた。
失礼だったと思う。僕もざわついた愚かな人々の1人であったが、自分が立候補したらその件について嘲笑を兼ねた騒ぎが起きることは、イジメの一種ではないか?
まあ、よい(良くないが)
さらに問題があるのだ。
ここから、僕のクラスは徐々に変な方向に舵をとりはじめる。大客船タイタニック号は、航海の予定を変更し、本来のルートから大きく外れ始めたのである。
彼の立候補と同時に、なぜか、全配役の再立候補が始まる。
露骨にも程があるだろうと考えるが、いかんせん学生であり、当時は最善策であると思ったのだ。
また、それとなく周りの人が、「君にはライオンが似合ってるよ」や、「もっとかっこいい役の方がいいよ〜」と言って別の配役はどうだろうかと当人に案を提示していた。露骨である。いや、露骨どころか骨の中の骨髄まで見えているレベルである。露骨髄である。
こうした周囲の人間の努力もむなしく、本人は一向に勇者役の立候補を取りやめる様子はなかった。
ここで民主主義は、その取り繕った外観を捨て、醜く剥き出しになった個人の意思の破壊を望む人間の欲望を露わにした。
暴走である。
それまで競合した配役において最終的な決定は、立候補したもの同士のジャンケンなどのある程度当人たちが納得できるような平等的な処理が取られていたのだが……。
ここで、文化祭配役決定のリーダー格の者が、ある提案をしたのだ。
「かぶった役があった時は、どの人がいいか投票で決めよー!」
まさに、悪魔の発言である。当人の納得も何もあったものではない。
しかし、僕のクラスは、僕も含めて、だが、声を揃えて
「「「さーんせーい!!!」」」
屈した。
その魅力には、敵わなかったのだ。
あくまでも正当を装って、気に入らない人間を排除する。
致し方ない。その『正当』は、僕達が何より欲していたものだった。
大義名分を得た働きアリ達は、半ばなし崩し的に、勇者の投票を行った。
勇者役に立候補したのは彼の男子。そして相対するもう1人の立候補者は、、、。
悲しいかな、その投票制度を設けたクラスのリーダー格の男子であった。
出来レースもいいとこである。もはや答えの見えた投票に、当人は何を思っていたのだろうか。
こうして、僕のクラスの民主主義は時に個人の意見を封殺し、平和を維持したのだ。
僕は学んだ。
時に、民主主義は、歯止めの効かない暴力的な活用をなされることを。
国レベルで起こらないことを、切に願う。