大学の自治の進化━デス・トラップ━
来たる資格試験に向け、僕は最近、大学内の図書室に通っている。
暖房も効いており、周囲の人間も静かで、非常に学習するに適した環境である。
しかし、そのような環境でありながら、僕は愚かにもギルティを犯してしまい、それにより自らの財産を失ってしまった。図書室で、だ。
平和なはずの図書室、そこでいかにして僕が一千円余りの財産を失ったか、その経緯を詳しく記していこうと思う。
まず、最初に言っておきたいのが、今回非があるのは間違いなく僕であるということだ。また、この件については、内面的ではあるが反省している。もしこの事案が学生部などから公表されたならば、素直に謝罪に行くことも決意している。
多少なりとも文章において相手方を批判するような部分が散見されるかもしれないが、僕のスタンスとしては文字通りの立場にいない、ということを念頭において見てほしい。
はーーーークッソ!!!!!クソクソ!!ザ!モースト!!!クソッ!!!!!!自分、怒りで燃えすぎて灰になりそうや!!!体!!!!!灰に!!!!!!なる!!!!!!!!!あーもうクソ!糞糞の糞。なんでやもー。まじありえん。
や、まずな?勉強しとってん。んでなにか忘れたけど、調べ物したったんよ、スマホで。あ、iPhoneな?ここ伏線や。
ほんでめっちゃ分からんこと多くてからにスマホずっっと触ったったんよ!したらとーぜん充電減るやろ!?んでー、持ち運びの充電器で充電しようとしたらー、それも充電なくてー、こらやばいな、と。
んで周り見渡したら机の下にイイー感じのコンセントあるやん!!!ただプラグは一個、しかも机の蛍光灯のコードついてるし…。
でも分かるでしょ?ケータイ触らんくなったらキツイの分かるでしょ?
だから、
抜いてん。
コードを。蛍光灯の。
んで、挿入。
iPhoneのあのちっこい四角のやつさして充電開始や。
無事充電することが出来て一安心。勉強を再開した僕なんだが…。
問題は、帰る時に起こった。
勉強道具をしまい、上着を羽織って、さあ帰るぞといって立ち上がった僕は、ああそういえばと差しっぱなしになったiPhoneの充電のやつの存在を思い出した。
あぶないあぶないと、1人呟きながら、コンセントからそれを引き抜こうとするが……
抜かない。
んん、抜けない。
どうにも力を入れても抜くことが出来ない。完全に一体化しているのである。
気を取り直してリトライするも、固く密着したそいつは握ることすら許さない。
やべぇ…
ここに来て、焦りが生まれた。しかも最終の交通機関が迫っており、時間的制約もある…。
まずい…
焦った僕は、恥を捨てて体制を変えることにした。
先ほどまでは周りからは見えないように机の下から充電器を抜こうとしていたが、机の反対側に周り、高さにゆとりを持ったフィールドからチャレンジすることにしたのだ。
9時過ぎとは言ってもまだまばらに人がおり、そのうち近くの人が好奇の視線を向けてくる…
そう、逆方向から充電器に両手を当て、引っ張る姿はさながら大きなカブのようであっただろう。図書室で突然ひとり大きなカブを始める大学生を見たら、それは視線を向けざるを得ない。
だが、取れればいい。
その一心で力を込め続けるも、一向に取れる気配がない。というか、微動だにしない。まったく進歩がないのだ。強く力を込めてもあの独特の滑りにいなされ、小さくまとまり洗練されたあのフォルムには、上手く力をかける「くぼみ」が存在しないためつかむことすらままならない。
チッ、チッ、
時間だけが過ぎていく。
冬とはいえないこの時期に、効き過ぎとも言える暖房の立てる金属音が、ひどく僕を苛立てる。
時間も15分は過ぎた、手持ちのお金も少ないし、帰りを逃せば色々と厳しい…。
頭の中で様々な考えが巡る。
そこでふっと充電器を見ると、、、
あー、いいわ。
急激に熱が冷めたような感覚に襲われた。
たかが充電器くらい、くれてやるわ。
ありがたく受け取れ。
僕は最後に、充電器を蹴って(生意気なことにここでも微動だにしなかった)図書室を後にした。
一年半を共にした、充電器との別れをもって…。
そして、帰り際。小馬鹿にしたような「室内充電禁止」の張り紙が、僕を見て笑っていた。
これで話は終わりだ。私見を述べるが、おそらく図書室内のコンセントには、コインパーキングと同じようなシステムが用いられているのではないだろうか?本来つけられているべき蛍光灯のコンセントでなく、何か別のまなが挿入された時、特殊な手順を取らないと抜けなくなるような仕組みが。
僕はまんまと、引っかかったわけだ。
みんなも気をつけよう!目先の欲求にとらわれて行動を起こすと、酷い目に合うぞ!そう、その刹那的な欲求こそが、損害を生むデス・トラップなんだ!意思を強く…強く……持って、トラップから抜け出そう!みんななら出来るよ、がんばろう!
鼻毛指摘から読み取る相互監視社会━パノプティコン
先日、バイト先の友達が、僕を指差しこう言った。
「お前w鼻毛出てんぞww」
なんということだ、僕は羞恥に頰を染め、鼻を隠してトイレに駆け込んだ。
クソッ、クソ鼻毛が!引っ込んでろ!
…処理を終え、その友達の元に戻る。
ふと、そのニヤついた顔を見ると…
出てる。
いや、出てると言うより…
飛び出している。前衛的に。
このオフェンシブな鼻毛を見た時の、僕の悶々とした感情は言葉にし難い。
つい先ほど多大な羞恥を与えてきた相手方は、今まさに僕に指摘されることでヒエラルキーの逆転を生もうとしている。
言おうか、言わまいか。
僕の中の悪魔は、奴への報復として、言わないことを選択した。
友人が困っている時、どのレベルなら助けられるだろうか。
「勉強教えて!」「ノート取っておいて!」「予約よろしく!」「代わりに出といて!」
、、、「お金貸して!」「話合わせて!」などなど。各人によって許容できる範囲が異なっているだろう。
鼻毛が出ている状態というのは、いわばそんな、困っている状態の一種ともいえる。
鼻毛が出ていることを指摘される行為は、むしろ自分を救済してくれる友人の優しさの表れであるかもしれない。
しかし、人という生物は、
素直にその優しさを、受け取ることが出来ない。
僕は、彼の僕に対する鼻毛指摘に何か侮蔑の意思を感じてしまった。
話の流れも加味した上で、そう、判断してしまったのである。ああ、話の流れというのは、その友人が検便を下痢で出したことを聞き、嘲り笑っていたのだ。彼の鼻毛指摘は、そのような中での指摘であったが故に、いわばカウンター、窮鼠猫を噛む、攻められていたマイナス要素(検便を下痢で出した不潔さ)を新たな相手のマイナス要素(鼻毛ニョッキの不潔さ)へのシフトを図り、これ以上の自己のマイナス要素への言及を防ぎつつ、相手への反撃も行う、そのような狙いがあったのではないか。愚かにも短絡的に、その場の浅い思考で、僕はそう答えを出した。
伝えない。
だが、これで、、
よかったのではないか?
そも、鼻毛の指摘に対し鼻毛の指摘を返すということが、現代の考え方に適していない。目には目を、の前時代的考え方になってしまう。ここは一方的な鼻毛指摘で終わらせることで、鼻毛→鼻毛→鼻毛→鼻毛…の無限ループを回避し、単発的な羞恥で済ますことができた、そう考えるべきではないのか?いや、詭弁では断じてない。ああ、そうとも。自分のケースを考えて見てほしい。
あなたが誰かに…そうだな、仮によく顔を合わせるけど大した仲良くない人としようか。そいつに鼻毛が自己主張していることを指摘されたとする。するとどうだ?そいつと顔を合わす度、そいつの鼻毛をチェックしないか?人に鼻毛の指摘をしておいて、自分が出てたら世話ないから。出てたら言ってやろう言ってやろうーーまさしく虎視眈々と、その長さ数ミリを逃さんと気を張るのでは無いだろうか?
黒ヤギさんたら読まずに食べた。。。まったくもって、終わりの見えないネガティブ・スパイラルに陥る。足の引っ張り合い、鼻毛の引っ張り合い、、、もしかしたら育めた友情も、鼻毛の指摘が破壊する。そのような展開はよろしくない。常にお互いの鼻毛を監視し合う社会関係、あなたはそれを望みますか?
まあ、もちろん。鼻毛を出していることにも過失があります。指摘される原因を無くせば、このような負の連鎖は起きません。
常に相手に自分の鼻毛が見られていると意識して、日々の身だしなみを整えることを怠らないようにしましょう。おっと、かといって、相手の鼻毛まで意識しなくてもよいですからね?つい口が滑り鼻毛指摘してしまい、あなたの指摘に相手が反抗精神を持ってしまったら…。
ははは。気をつけましょう。
破壊的民主主義━記憶に残った文化祭━
民主主義。
近代から世界に爆発的に普及した、国家のシステムである。その根幹を成すのが、構成員の主権であり、物事を決定するにあたりその構成員が決定することが、民主主義として不可欠なのである。
もっともこのような考え方の本質は、人の平等である。人間は生まれながらにして差別される?それはおかしいのではないか。そのような疑問が生まれるのは当然のことである。
たしかに経済的にも社会的も差は生まれることは既に肯定されうるが、人としてこの世界に存する限りその人である存在に差別が生ずるのは甚だおかしい。「平等」。この考え方は至極当然のことである。
わけだが、、、
僕は高校生の時、時に暴力的に、その民主主義が暴走し、ルールを破壊し、平等の名の下に個人の意思を蹂躙していく様を見たことがある。今回はその件について、筆を取った。
高校2年生、思春期も終わりが近づき、精神的に多感な部分も安定した部分も持ち合わせる、そんなモラトリアムな時期。
僕の高校では、年に一度の文化祭が、あった。
読者の方ももちろん、普通に学生生活を送っていれば、当然経験があるであろう文化祭。イメージを抱いて欲しい。
配役を決める時、それぞれが己が演じたい役を主張し、周りとの調整を図り決定していた様子を。どうだろう?想像つくだろうか?
では、その中で、複数人が競合しなかった配役があれば、それは『即決』していなかっただろうか?していただろう。していたはずだ。僕も小学校中学校は、競合のないお坊さんや昆布、樹木の役は希望者が希望を出した時点で決定していた。
長々と書いてきたが、未だタイトルに関係のないことばかりで申し訳ないが、ここからが本題である。
文化祭の配役の中に、「勇者」役があったのだが、
その勇者役に、1人の男性が、立候補した。
その男性は、どちらかというと普段は主張の控えめな人で(若者言葉でイメージしやすく言うと、インキャ)およそこのような時に立候補してくることは、誰も想像していなかっただろう。
だから、
教室は、
ざわついた。
失礼だったと思う。僕もざわついた愚かな人々の1人であったが、自分が立候補したらその件について嘲笑を兼ねた騒ぎが起きることは、イジメの一種ではないか?
まあ、よい(良くないが)
さらに問題があるのだ。
ここから、僕のクラスは徐々に変な方向に舵をとりはじめる。大客船タイタニック号は、航海の予定を変更し、本来のルートから大きく外れ始めたのである。
彼の立候補と同時に、なぜか、全配役の再立候補が始まる。
露骨にも程があるだろうと考えるが、いかんせん学生であり、当時は最善策であると思ったのだ。
また、それとなく周りの人が、「君にはライオンが似合ってるよ」や、「もっとかっこいい役の方がいいよ〜」と言って別の配役はどうだろうかと当人に案を提示していた。露骨である。いや、露骨どころか骨の中の骨髄まで見えているレベルである。露骨髄である。
こうした周囲の人間の努力もむなしく、本人は一向に勇者役の立候補を取りやめる様子はなかった。
ここで民主主義は、その取り繕った外観を捨て、醜く剥き出しになった個人の意思の破壊を望む人間の欲望を露わにした。
暴走である。
それまで競合した配役において最終的な決定は、立候補したもの同士のジャンケンなどのある程度当人たちが納得できるような平等的な処理が取られていたのだが……。
ここで、文化祭配役決定のリーダー格の者が、ある提案をしたのだ。
「かぶった役があった時は、どの人がいいか投票で決めよー!」
まさに、悪魔の発言である。当人の納得も何もあったものではない。
しかし、僕のクラスは、僕も含めて、だが、声を揃えて
「「「さーんせーい!!!」」」
屈した。
その魅力には、敵わなかったのだ。
あくまでも正当を装って、気に入らない人間を排除する。
致し方ない。その『正当』は、僕達が何より欲していたものだった。
大義名分を得た働きアリ達は、半ばなし崩し的に、勇者の投票を行った。
勇者役に立候補したのは彼の男子。そして相対するもう1人の立候補者は、、、。
悲しいかな、その投票制度を設けたクラスのリーダー格の男子であった。
出来レースもいいとこである。もはや答えの見えた投票に、当人は何を思っていたのだろうか。
こうして、僕のクラスの民主主義は時に個人の意見を封殺し、平和を維持したのだ。
僕は学んだ。
時に、民主主義は、歯止めの効かない暴力的な活用をなされることを。
国レベルで起こらないことを、切に願う。