鼻毛指摘から読み取る相互監視社会━パノプティコン
先日、バイト先の友達が、僕を指差しこう言った。
「お前w鼻毛出てんぞww」
なんということだ、僕は羞恥に頰を染め、鼻を隠してトイレに駆け込んだ。
クソッ、クソ鼻毛が!引っ込んでろ!
…処理を終え、その友達の元に戻る。
ふと、そのニヤついた顔を見ると…
出てる。
いや、出てると言うより…
飛び出している。前衛的に。
このオフェンシブな鼻毛を見た時の、僕の悶々とした感情は言葉にし難い。
つい先ほど多大な羞恥を与えてきた相手方は、今まさに僕に指摘されることでヒエラルキーの逆転を生もうとしている。
言おうか、言わまいか。
僕の中の悪魔は、奴への報復として、言わないことを選択した。
友人が困っている時、どのレベルなら助けられるだろうか。
「勉強教えて!」「ノート取っておいて!」「予約よろしく!」「代わりに出といて!」
、、、「お金貸して!」「話合わせて!」などなど。各人によって許容できる範囲が異なっているだろう。
鼻毛が出ている状態というのは、いわばそんな、困っている状態の一種ともいえる。
鼻毛が出ていることを指摘される行為は、むしろ自分を救済してくれる友人の優しさの表れであるかもしれない。
しかし、人という生物は、
素直にその優しさを、受け取ることが出来ない。
僕は、彼の僕に対する鼻毛指摘に何か侮蔑の意思を感じてしまった。
話の流れも加味した上で、そう、判断してしまったのである。ああ、話の流れというのは、その友人が検便を下痢で出したことを聞き、嘲り笑っていたのだ。彼の鼻毛指摘は、そのような中での指摘であったが故に、いわばカウンター、窮鼠猫を噛む、攻められていたマイナス要素(検便を下痢で出した不潔さ)を新たな相手のマイナス要素(鼻毛ニョッキの不潔さ)へのシフトを図り、これ以上の自己のマイナス要素への言及を防ぎつつ、相手への反撃も行う、そのような狙いがあったのではないか。愚かにも短絡的に、その場の浅い思考で、僕はそう答えを出した。
伝えない。
だが、これで、、
よかったのではないか?
そも、鼻毛の指摘に対し鼻毛の指摘を返すということが、現代の考え方に適していない。目には目を、の前時代的考え方になってしまう。ここは一方的な鼻毛指摘で終わらせることで、鼻毛→鼻毛→鼻毛→鼻毛…の無限ループを回避し、単発的な羞恥で済ますことができた、そう考えるべきではないのか?いや、詭弁では断じてない。ああ、そうとも。自分のケースを考えて見てほしい。
あなたが誰かに…そうだな、仮によく顔を合わせるけど大した仲良くない人としようか。そいつに鼻毛が自己主張していることを指摘されたとする。するとどうだ?そいつと顔を合わす度、そいつの鼻毛をチェックしないか?人に鼻毛の指摘をしておいて、自分が出てたら世話ないから。出てたら言ってやろう言ってやろうーーまさしく虎視眈々と、その長さ数ミリを逃さんと気を張るのでは無いだろうか?
黒ヤギさんたら読まずに食べた。。。まったくもって、終わりの見えないネガティブ・スパイラルに陥る。足の引っ張り合い、鼻毛の引っ張り合い、、、もしかしたら育めた友情も、鼻毛の指摘が破壊する。そのような展開はよろしくない。常にお互いの鼻毛を監視し合う社会関係、あなたはそれを望みますか?
まあ、もちろん。鼻毛を出していることにも過失があります。指摘される原因を無くせば、このような負の連鎖は起きません。
常に相手に自分の鼻毛が見られていると意識して、日々の身だしなみを整えることを怠らないようにしましょう。おっと、かといって、相手の鼻毛まで意識しなくてもよいですからね?つい口が滑り鼻毛指摘してしまい、あなたの指摘に相手が反抗精神を持ってしまったら…。
ははは。気をつけましょう。